ASCA図書館①~シブヤで目覚めて~
ASCAでは、社員同士で自由におすすめの本を紹介しあう「ASCA図書館」という文化があります。ジャンルはビジネス書~小説、マンガまで何でもござれ。今回は、その中から、チェコ人作家アンナ・ツィマのデビュー作『シブヤで目覚めて』をご紹介します。
アンナ・ツィマ作、阿部賢一、須藤輝彦訳『シブヤで目覚めて』、2021年、河出書房新社
この物語の舞台はチェコのプラハと日本の東京。村上春樹や三船敏郎が大好きな主人公のヤナは日本への憧れからプラハの大学で日本文学を専攻し…というところまではよくある日本オタクの物語のようですよね。
が、この小説、それだけではなく、物語に「翻訳」というものが深くかかわっているんです。翻訳会社の社員として、「翻訳」というものを扱うこの本を今回は紹介します!
見どころ① 作者の分身
主人公のヤナは、村上春樹の小説をきっかけに日本に興味を持ち、アニメとマンガに傾倒し、日本語を学び始めます。
17歳のころには、同級生が映画『ハリー・ポッター』のダニエル・ラドクリフを追いかける中で黒澤明作品の三船敏郎に憧れ、大学では、授業中でもアニメのキャラクターのコスプレをしているような同級生がいる日本学専攻に進みます。
日本学専攻では、アニメとマンガと村上春樹にだけに興味を持っている学生も多い中、ヤナは日本の本格ミステリーや戦前の純文学にも興味を持ち、偶然発見した川下清丸という作家の作品に惹かれてゆきます。
物語はヤナの視点で進みますが、第1章から、村上春樹の小説、『ナルト』や『犬夜叉』といったマンガやアニメ、黒澤明の映画、横光利一や川端康成、さらには松本清張といった作家の名前が登場し、ヤナの日本に対する知識がページをめくるごとに現れます。
実は、この小説の作者アンナ・ツィマ自身、日本好きで、大の三船敏郎ファンでもあり、プラハのカレル大学の日本研究学科で日本文学を研究していました。つまり、ヤナは作者自身の分身とも考えられます。
大学入試の場面では、忍者の格好をしている人やロリータファッションに身を包んだ人の描写がありますが、実際のカレル大学の日本研究学科の入試でも、毎年よくある光景なのだそう。
また、ヤナが日本に憧れるあまり、箸でヨーグルトを食べていたという話も出てきますが、実際に作者自身も同じことをやっていたのではないか、と思わせるエピソードです。
見どころ② 架空の作家の現実感と翻訳
ヤナが心惹かれてゆく作家・川下清丸は、埼玉県川越市出身で大正から昭和初期に数作しか残していない、日本でもほとんど無名の人物です。「聞いたことない名前だな」と思うのも当然、川下は作者が作り出した架空の作家なのです。
しかし、たかが架空だと侮ることなかれ。作者の専門は戦後の日本文学ではあるのですが、徹底した時代考証の中に川下の緻密な描写を入れ込み、まるで川下が本当に実在した作家であるかのように描き出しています。
物語では、ヤナが少しずつ訳していく小説として川下の短編小説「恋人」が登場するのですが、その文章は大正・昭和初期の小説の文体を取っています。
ここで気を付けたいのが、『シブヤで目覚めて』は元々チェコ語で書かれている小説だということ。つまり、川下の短編小説の部分も、オリジナルではもちろんチェコ語で書かれています。この部分を作者は、川端康成の小説のチェコ語訳などを参考にして、いかにも大正・昭和の日本語小説のチェコ語訳のような文体に仕上げたそうです。
そして、日本語訳では、川下の小説部分は、大正・昭和初期の小説のような文体に訳されています。これは、訳者が意図的にそう訳していないと意味がないところ。日本語版の翻訳者の訳出に、作者自身も感心したといいます。
『シブヤで目覚めて』は日本語版が出版される前に、すでにドイツ語やポーランド語など複数の言語に訳されていましたが、他の言語ではなく、日本語で楽しめるということが、私たち日本の読者にとってはある意味一番贅沢な点かもしれません。
見どころ③ 謎解き
物語のもうひとつの舞台、東京。そこには、プラハにいる大学生のヤナとは別に、17歳のヤナの分身が閉じ込められていました。
17歳で憧れの日本を訪れた際、日本への想いがあまりにも強かったため、本人も知らないうちに幽霊となってしまったようで、以来、ヤナの分身は17歳のまま、渋谷の街をさまようことになるのです。
どうやったらヤナは渋谷の外に行くことができるのか。なぜプラハのヤナも知らないまま、ずっと渋谷をさまよっているのか。謎は、思わぬ形で謎の作家川下ともつながってゆきます。
あまり紹介しすぎると物語を読む楽しみがなくなってしまいますので、ここから先は、ぜひ実際に『シブヤで目覚めて』を読んで謎解きに挑戦してみてください。
書き手:K.N